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意識低い系ハルキスト

毎年ノーベル賞候補に挙がっている村上春樹
ノーベル賞発表の時期にテレビに出始める"意識高い系ハルキスト"のスタンスには違和感を感じるものの、意外と村上春樹の文章が好きだったりします。
とはいえ、周りに生息するIT屋さんで村上といえば、(僕の周りに限って言えば)春樹より龍の方を好む傾向が強い気がしています。

春樹vs龍

村上春樹村上龍の違いといえば、文章におけるスタンスの差が大きいのかなと思っています。
村上春樹の文章から受ける印象は、抽象的な概念を(村上春樹の言葉では形而上学的な)イメージの積み重ねにより、読者の中にある個人的なリアリティに言及する文章。
村上龍の文章から受けるイメージは、徹底したシミュレーションに裏付けられたリアリティを積み上げることにより、読者とのイメージを共有する文章。
どちらもアプローチに違いこそあれ、向かう先にそれほど差はないんじゃないかなんて思ったりします。(それは春樹と龍の差というより、文学ってそう言うものなのかも)

意識の低いハルキスト

そんな中、村上春樹の小説が世代を超えて読まれる理由は何なのか。
ネットで"意識の高い"と揶揄されるハルキストですが、1千万部単位での売り上げを誇る購買者の中では、"意識の高い"と定義される読者は数パーセント程度の割合しかいないんじゃないかと思っています。
じゃあ、"意識の低い"ハルキストはなぜ村上春樹に惹かれるのか。この前テレビを見ててジェイ・ルービンとロバート・キャンベルが似たようなことを言っていました。

自分に向けられたメッセージ

彼らの主張は、読者は村上春樹の文章から「自分のために書かれた小説」であるという印象を持っているというものでした。
村上春樹といえば、平易な文章と巧みな比喩であるとか、文章からにじみ出る孤独感と喪失感であるとか、そう言った言及がなされる小説家というイメージですが、それは本質ではないと思うのです。
彼らのいうことは僕の中で非常に腑に落ちるものであり、(個人的な)村上春樹の文章の本質は、「自分のために書かれた個人的なメッセージのように受け取れる」ということに尽きると思うのです。

マスの追及によるミクロへの言及(あるいはその逆)

売り上げでいうとマス的に受け止められている村上春樹ですが、個人単位での受け止め方としては、非常にミクロな次元で受け止められている印象を受けます。
日記を書いてるような陳腐な歌詞のJ-POPだと中々超えられない、世代を超えた共通的なミクロな感情を、マス的に表現できる作家。それが村上春樹の本質なんじゃないかと思ったりします。

意識の低いハルキストは何の夢を見るか

アンドロイドが電気羊の夢をみている間、意識の低いハルキストはなんの夢を見ているのか。
意識の低いハルキストは、時代がもたらす抑圧の被害者である(あるいはそう認識している)層が主流ではないかと思うのです。
彼らは、"ここではないどこか"それは井戸の底であったり、自分しかたどり着けないホテルの一室であったり、街の壁の中だったりする場所を心の中に秘めた人々であるのではないかと。
村上春樹がそうでない人を描写した(と個人的に感じている)表現に"想像力の無いうつろな人々"という言葉がありますが、意識の低いハルキストは、"うつろでないとあろうとする人々"なのではないかと。
”うつろではない(と自信をもって言える)人々”は意識の高いハルキストに任せるとして、我々意識の低いハルキストは"うつろでないとあろうとする"という曖昧な夢をみて今日も日々に忙殺されている、そんな人々ではないのでしょうか。